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大谷康子の医学論文

病院コンサートでの触れ合い

私が初めて演奏家としての自分なりの目標の実現に第一歩を踏み出したのは1996年,国立療養所長良病院でのことだった。ここのあかつき病棟には入院している筋ジストロフィー症の患者さんたちによるサンライズというバンドがすでに結成されており,院内には音楽室まであって,筋力が失われていく方々でも操作できるようなシンセサイザーが完備していた。もともと私の小学校時代の同級生がそこの小児科医をしている関係で,病気に苦しむ子供たちに美しい生の音楽を聴かしてあげたいという話から,入院患者さんたちの前でのコンサートを頼まれたのだが,それならばそのバンドとの共演もしようということで実現したものである。

サンライズの患者さんが作曲した『生まれたての朝陽のように』という作品を一緒に演奏した。心を打つような美しいメロディーの曲で,メンバーは素晴らしい笑顔で演奏していたが,私の胸には込み上げるものがあって感動的であった。
その後,病院の一角の大きな部屋で,入院患者さんや付き添いの方や職員の方々に私のコンサートを聴いていただいたが,普通の演奏会にいらして下さる聴衆とは大きな違いがあった。ほとんどの患者さんは自力で歩くことが出来ず,車椅子かストレッチャーで会場に連れて来られており,多くの方が点滴をつけている。また拍手も思うにまかせない患者さんも多かったが,その代わりに声を発したり体を揺すったりして,私の演奏に声援を送って下さっていた。

またその会場にさえいらっしゃれない患者さんたちのために次に私が各病室を回って演奏したが,外から見ただけではほとんどと言っていいくらい表情や動きの無い患者さんでも演奏後に声を発して下さったりして,私の演奏を聴いてくれたんだということが判り,とても嬉しかった。また私に付き添って病室を回られた看護婦さんが,入院中の子供たちの前では「こんな近くで聴けて良かったね」などと威勢よく励ますような口調で喋りかけているのだが,廊下に出るとそっと目頭を押さえていらしたのも印象的だった。

私はこの国立療養所長良病院の他にも,いろいろな方の協力でいくつかの病院で演奏させていただいた。喘息の子供たちの病院や精神病院などもあり,どうして世の中にはこんな病気があるんだろうと恨めしく思うこともある。患者さんやご家族の方の苦しみを考えると何ともいたたまれない気持ちになるが,本人やそれを日頃支援されている職員の方々の状況は,おそらくそんなセンチメンタリズムだけではどうにもならないことが多いのだろう。しかしこの仕事を通じて,いろいろな方々と接して闘病生活の一端に少しでも触れることが出来たことは私にとって貴重な経験であったし,またこんな私のような者の演奏でもそういう方々の心の支えになることができれば非常に嬉しいことであり,今後もこのような演奏活動を続けて行きたいと思っている。

最近では音楽療法といって,音楽を通じて患者さんたちのリハビリなどを進めて行こうという研究も進められているが,世の中にはいわゆる不治の病で,現代医学でも治療法がまったくない病気に苦しむ方も多いことを知らされた。そういう方々の大部分は長期間の入院を余儀なくされており,当然のことながら普通の演奏会などを聴きに行くなど至難のことである。

少し話は変わるが,世の中にはいわゆるクラシック音楽とは格式のある立派なコンサート会場に行って,威儀を正して聴くものだという考え方が根強く残っているように思えてならない。小中学校の音楽教室などに行っても頭ごなしに聴衆たる者のマナーを叩き込まれている子供たちを見ていると,もっと自由に振る舞わせれば本当は目の色を輝かせて聞き入ってくれるのに,これではクラシック音楽が嫌いになってしまうのも無理はないなと気の毒に思うことすらある。まして長期入院中の不治の病気の患者さんたちが演奏会場に足を踏み入れるなどとんでもないということになりかねない。

私が精神病棟で演奏させていただいた時には,例えばツィゴイネルワイゼンなどの激しい曲想の作品は弾かないで欲しいと言われてびっくりしたことがあり,確かにそのような患者さんたちはもっと静かな曲でも演奏後にピアノにしがみついて大騒ぎしたこともあるが,しかしそれもその患者さんにとっては音楽に接することのできた喜びをその人なりに表現しているに過ぎないのだと感じた。

音楽に(もっと広く言えば芸術に)触れる喜びは万人共通のものであるはずで,どんな患者さんであろうと例外ではない。だがその喜びの表現方法があまりに普通の方と異なる人がコンサート会場に入場することは恐らく難しい問題を引き起こすだろうし,ベッドに寝たきりになった方々の場合も医療的な安全を期することが困難であろう。

ではどうすればよいのか。私は演奏家自身が音楽を求める人々の中へ入って行くことも必要だと日頃から考えていた。立派なコンサート会場を手配して貰って演奏を聴かせてやるという態度は間違いである。

またボランティアという考え方とも違っている。芸術を志す者はいろいろな人々の間に進んで入って行って,人々の喜びや心の痛みや悲しみを肌で感じなければならない。つまり私が病院でコンサートを行うのは患者さんたちのためだけではなく,演奏家を志した私自身のためでもあるのだ。

先日(1998年1月5日)再び国立療養所長良病院を訪れて彼らの新曲を一緒に演奏してきたが,その折りにまたの共演を約束した。私は今後も時間の許す限りいろいろな施設に出かけて行って,人々との触れ合いを深めて行きたいと願っている。